札幌大通地下ギャラリー 500m美術館

お知らせ

News

「第3回札幌500m美術館賞」二次審査結果発表

2014年11月5日

 
 
過日、第3回札幌500m美術館賞の厳正な二次審査がおこなわれました。
 
第3回札幌500m美術館賞は、グランプリ該当者無し
 
最終審査通過者、染田リサ、田村陽子の2名による第3回札幌500m美術館賞展を行います。
 
下記に審査員講評を記載します。
 
 
 
 
 
■ゲスト審査員
神谷幸江 (広島市現代美術館チーフキュレーター)
 
ストリートは、アーティストによって表現の場所になってきた。60年代のハイレッド・センター、80年代イースト・ビレッジでのバスキアたちしかり。地下歩行通路というストリートを美術のための場所にする500m美術館は、都市に介入したアーティストたちの試みを恒久的に確約するべく出来上がった、ユニークな美術のための空間だ。その特徴的な場所ゆえ、難しさはある。長い長い、そして人々の行き交うストリートという公共空間にあるということ。今回の応募者たちはこの特徴的な空間に対峙する、という課題を改め突きつけられたのではないだろうか。
田村陽子さんは「編む」という時間の経過を可視化する行為を、この雑踏の中の空間と視覚的、文脈的にどう結びつけるかが求められる。染田リサさんは「長さ」を抜群に生かした絵巻物のごとき写真作品だが、花の美しさに頼らないサイトスペシフィシティーを見出してほしかった。2次審査まで進んだ日笠保さんの矢印は、雪に埋もれた路肩を示す冬の北国の標識を引用し、土地の文脈を作品に取り込むことを試みているが、ウィンドウの空間性を生かすまでに及んではいなかったのが惜しい。ad:libさんはグループでのディスカッションから新たな発表形態を模索しようという方法論に可能性を感じるが、それが観客に何を伝え、波及させたいのか曖昧なままだったのは残念である。展示する作品にその場所にあることの必然性と強さを求める500m美術館は、なかなか手強い。
 
■審査員長
北村 清彦 (北海道大学大学院文学研究科芸術学講座教授)
 
今年度の「500m美術館賞」は最終審査に残った4組の候補について厳正に審査した結果、残念ながら「グランプリの該当なし」という結論にいたった。その理由は、ここ500m美術館でなければならない必然性をもった作品がなかったからである。そんな中でも染田氏の作品は川辺の桜を写した長尺の写真で、あるものを被写体としながらそこに必ずしも意図しない事柄、ここでは人々の営みが写り込んでしまうという写真の特性を良く理解しており、私自身は500m美術館に相応しいとも思われたが、既存の施設に既存の作品するのでは両者の間に新たなダイナミズムが産み出されることが期待できず、審査員全員の合意を形成するには至らなかった。また田村氏の作品は長年制作している足型の作品をその制作過程のドキュメント写真とともに展示するものであるが、足型のモデルが500m美術館まで歩いて来たという事実だけでは、作品と場との関係性は希薄と言わざるをえないし、8つのガラスケースがみな同じパターンになってしまうことも危惧された。「編む−−足−−歩む」ことの内在的な意味について更に突き詰めてゆけば、もっと多様な作品展開も可能なのではないかと思われる。日笠氏は固定式視線誘導柱と呼ばれる道路の路肩の位置を示す矢羽根標識をカッティングシートで作り、ガラスケースのガラス面に貼る作品を提案したが、その「どこへ?」という哲学的、社会的な問題意識とは裏腹に単なる観光標識的な作品になってしまった。ad:libグループの、日常的な「小さな渦巻き」が私たちの創造性の根源であるというコンセプトも分からないわけではないが、いかんせんその結果、どのような具体的作品展開となるのかがまったく提示されなかった。結果として、4組のどなたにも圧倒的に支持する意見がなく、しかし4組がみな同じ水準にあるとも思われず、審議した結果、染田氏と田村氏を「グランプリ該当なしの最終審査通過者」とすることとした。
 
 
■審査員
三橋 純予 (北海道教育大学岩見沢校美術文化専攻教授)
 
毎年、500mグランプリの審査では、500m美術館の特性である「長いガラス壁面展示を活かす」「地下空間の公共性」という他の美術館とは全く異なる性質をどのように活かす展示プランであるのかを基準としている。
今回、二次審査に残った4組のプランは、コンセプトにおいてはこれらの視点を考慮されてはいたが、全体に言えることであるが、その具体化としての実際の作品との関係性になるとかなり弱いという印象を持った。
田村氏の作品は単独では大変に面白いが500m美術館での展開プランはその良さが活かされていないと感じられた。今までの作品制作のコンセプトを大切にしつつ長い空間を活かせる展開方法が他にもあると思われるので、今回は新しい挑戦をしてもらえることを期待している。
染田氏は独自の写真特性を提示するパノラマ写真制作を続けている作家であり、500m美術館での作品展開には制作スタイルは適していると思われる。今回は桜をメインにした過去作品ではなく、可能なら北海道での新作を期待したい。
日笠氏は既存の場において、その場の歴史や意味を捉える制作スタイルであり、今回「固定式視線誘導柱」を中心にしたコンセプトは大変興味深かったが、実際のプランニングに落とし込む際に、テーマを作品展開に結びつける段階がかなり弱いと思われた。次年度、もう少しコンセプトを掘り下げたプランを提案してくれることを期待している。
ad:libグループは、ある「詩」に触発されたテーマを中心に、展示方法論の枠をやぶろうとするコンセプトであったが、具体的な作品と完成後のイメージが伝わりにくいことがネックとなったと思われる。
 
■審査員
吉崎 元章 (札幌芸術の森美術館副館長)
 

 3回目となった今回の500m美術館賞の応募のなかには、この場所の特性を生かした斬新なアイデアや、実現したものをぜひ見たいと強く思う提案は、残念ながらありませんでした。
  確かにここは難しい場所でしょう。横一列に全長96メートル続く特異なスペースですし、地下コンコースという性格上ほとんどの人が足早に歩行しながら作品 を見るか、まったく関心なく通り過ぎていきます。また、札幌であること、地下であること、冬期間の展示であることなどを考慮したものも多いのですが、浅い知識による無理な関係性は、かえってこじつけ的な薄っぺらな印象を与えてしまいます。しかし、ここでしかできない表現というものはきっとあるはずです。今 後、果敢に挑戦する作品や企画が出てくることを期待しています。
 田村陽子さんは、 さまざまな人の足の形を麻糸で編むというこれまでの仕事の延長として、編まれる人の等身大の写真と制作中のカット写真を合わせて展示するプランでした。編むという行為そのものの意味とその時間の共有、そして空虚で歪んだ完成品が宿す精神性など、コンセプトをより明確に意識することでさらに深まりを増すシ リーズなだけに、今回の展示方法の有効性についてはやや疑問を抱きました。
 染田リサさんは、川辺を延々と撮影した写真を横につなげた作品の展示です。京都で撮影した既存の作品でしたが、このスペースでも全体の2/3しか展示できないという長さがあり、500m美術館の長さを最も有効に活用したプランでした。しかし、冬期間にひと足早い桜で春を感じて欲しいというだけでは札幌との関係性が薄く、札幌で新規に撮影する意欲や、逆に場所性を排除し写り込んだ人の所作への興味を前面に出すなど、これまで展示機会の少なかった作品の発表の場という以上のものが欲しいと思いました。
 日笠保さんは、冬に路肩の場所を知らせる下向き矢印の標識をカッティングシートでガラス面に展開するアイデアでした。吹雪のなかでも運転者に正しい道を知らせてくれる北海道らしい標識に着目したのはいいのですが、もっと手法やバリエーションを工夫することで、ここに展示する意義や現代社会との関係が強められたと思います。
 ad:libについては、彼らのグループとしてのコンセプトや活動はある程度理解しましたが、実際にここで何をしたいのかということが正直なところわかりませんでした。
  全体として、二次面接審査におけるプレゼンテーションの仕方に優越はありましたが、今回はその点よりも提案内容、展開の可能性によって審査しました。しかし、自分の考えをしっかりと伝えるというスキルも、こうした公募においては重要なものです。具体的に何をどう展示するのか、見る人に何を感じてもらたいの か、どのような問題意識をもっているのかなど、自分の考えを明確にもつとともに、多様な質問や要求にも応えられる柔軟さも欲しいところです。

 
■審査員
寺嶋 弘道 (北海道立近代美術館学芸部長)
 
 
厳しく難しい審査だった。作家にとっても、われわれ審査員にとっても…。結果、第3回目となる今回は、グランプリなしというコンペの目的を果たせない事態となった。
しかし、成果がなかったということではない。なぜなら、審査の過程でいくつもの驚きと発見があり、創造性とその選択のあり方について考察することができたからだ。応募書面に見入り、作家と審査員が意見を交わし、事務局や主催者とも応答しながら選考を重ねた。二次審査は5時間近くの長丁場となったが、最終的に染田リサ、田村陽子の2名に対して作品発表の機会を与えるという結論に至った。
選考とは、選択と削除の繰り返しだ。大抵の場合、要件審査や投票や議論によって絞込みを行う。その場合の拠るべきところはなにか。その第一は応募要項である。その上で作品の創造性や固有性や意味内容が競われる。今回、何度この要項を読み直しただろうか。それはすなわち、審査の基準を確認しなければならない場面がたびたびあったということである。
本コンペでは、テーマを設定していない。したがって、公共空間にそぐわない作品以外は、応募者の自由な表現を認めることになる。また、作品本体の審査ではなく制作プランの募集ゆえ、構想力とともに計画の実現性が問われる。受賞発表から開幕まで3カ月の制作期間だ。それゆえ、作品の完成度は未知数としても現実可能なプランでなければならない。新作か否かは問うてはいないが、旧作を並べるだけの個展開催プランでは制作意欲が疑問視されるだろう。したがって、制作内容を的確に伝える企画書の作成や二次面接でのプレゼンテーションが必要だ。当然、それに対応する審査の側にも大いなる想像力が求められる。単純に作品の創造性だけで選考してよいわけではない。
そして、本コンペの審査を難しくしているもう一つの要素がある。それは、500m美術館の展示空間がホワイトキューブではないということだ。地下通路のショーケースを利用するのが条件である。この点こそが本コンペを難しく、しかし、他にはない魅力的なものにしているといえる。奥行きのある幅12メートルの長大なガラスケースが8基。総延長は96メートルに及ぶ。これをいかに使うか、あるいは使いこなすか。若しくは使うに相応しい作品かどうか。
さらに言えば、ここが日本の北方に位置する札幌市の、地下鉄コンコースという公衆が往来する特殊な空間ゆえに、その場所性を考慮すべきだという意見もあることだろう。一方で、ケース自体が外界とその内部を隔絶する展示装置であるので、内部は純粋に創造行為の提示空間でよしとする考えも間違ってはいまい。要は、応募プランに応じたケースの機能の活用、つまり作品と展示空間との整合性が図られているかどうかである。
なにを、いかに、そしてなぜ表現するか。芸術とは、それらが問われる創作行為である。ホワイトキューブでの作品発表であればこの三要素によって選考を進めればよい。しかし、本コンペでは、さらに「どこで」という条件設定が加わる。応募要項の開催趣旨に書かれているのは、この難しい設定ただ一つなのである。この点を造形上の新たな課題として積極的に受け止め、その課題を解決する企画提案こそがグランプリに相応しいといえる。このような展示空間の制約とそこから派生する作品・企画内容について、具体的で斬新、かつ独創的な提案が少なかった、あるいは弱かったという点が、グランプリ該当作品の選出に至らなかった最も大きな理由ではなかったかと振り返る。
一次選考を通過した5件のプランは、いずれも十分に魅力ある造形性や企画性を展開する可能性を秘めていた。が、創造の原点にたち返るとき、創作行為の主題や内容、あるいは表現技法や展示手法について、5件のそれぞれがさらなる深化を要求されるプランであったことも否めない。さらに、展示ケースの機能性について十分な検討がなされておらず、500m美術館での展示を推し進めるには至らないと想定せざるを得ない作品でもあった。あるいは、自身のプランの有意な特長を伝達する表現力、つまり構想を語るプレゼンテーションに力が発揮できていなかったのも事実である。十分に魅力的な造形性を有しているのに、残念ながら、96メートルという長大な空間を創造的に活用するプランであるとはいずれも認定できなかったのである。
グループad:libが提案した展示手法は秀逸だったが、なにを表現したいのか、その点が弱かった。グループショーとは個別の作品の集合であり、集合全体と各コンテンツの関係性が問われるからである。二次面接に参加できなかった風間天心は選考の対象外となった。主催者側では面接審査というシステムのあり方を再確認することにはなったものの、企画者としての作者が自作をアピールする機会を逸したのは惜しかった。染田リサの作品の完成度は、他の応募者に比して安定した到達感を示していた。これはコンクールという競争のなかでは有利に働くはずだが、本コンペが求める「どこで」という問いへの答が定型的で、札幌という場所性を考慮するか否かについて熟考を要する。田村陽子の手業が織りなす造形は、それだけで十分な創造性に満ちている。だが、なぜこの表現を行っているのか、96メートルのガラスケースにどう向き合うのか、自らの言葉で編み上げる必要がある。日笠保もまた別な意味で、ケースの利用が弱点となった。ケースとは3次元の箱のことであり、ガラス壁面や窓とは異なる。提案プランの独創的なアイディアをいかす取り組みが、一層深まることを期待したい。
こうしてみると、応募者には相当高度な企画力が求められる。他方、制作プランによる審査の難しさも痛感せざるを得ない。書面審査のみならず面接審査の過程においても、与えられた情報からかなりの想像力を膨らませ、完成形を思い描く必要があるからだ。さらに、提案プランに対して主催者や審査員の助言やコミットがどの程度まで許容されるのか、企画競争だけに作品への要望や関与のあり方も難しいところである。よい展示にしたいという目標は明瞭である。だが、可能性と完成度の交点を見計らい、修正協議も視野に入れながら、唯一の企画プランを選定するのは容易ではない。
グランプリを得ることはできなかったものの、二次面接に残った4人全員に対して、等しく作品展示の機会を与えてはどうかという意見も出された。しかしそれでは審査会合がその役目を果たしているとはいえないだろう。どのような制作プランがあるにせよ、選択と削除を行うのが審査だからである。準グランプリあるいは奨励賞などの名称で、次席となったプランを顕彰するという提案も見送ることとなった。なぜなら、本コンペはただ一つの受賞プランを選定するのがミッションだからである。
結局のところ、グランプリを選べなかった要因は応募プランにあるとしても、選ばなかった責任はわれわれ審査員にある。厳しくも残念な結果である。審査という行為もまた、創造的な営みであるはずだから。